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 昭和20年、終戦を迎えた鹿児島県曽於郡の山や川にはおびただしい牛馬の骨が無残に散乱していました。志布志湾から敵が上陸してくるという噂に、人々が手塩にかけた牛馬を食料として郡に提供した結果の事です。戦いは免れましたが、畜産農家はどこも壊滅状態。人々の夢も希望も消えてしまったかのようでした。


 そもそも曽於郡を含む大隅は県内屈指の牛の産地。人々は明治30年代から組合をつくり、大隈の牛に畜産の夢を託し、改良を続けていたのでした。
 そんな時、戦地から一人の畜産技術員が帰ってきました。彼は戦前、自分が手がけた牛たちの末路を嘆き、郡内の山中を歩き回りました。そしてやっと二頭の種牛を発見したのです。鹿児島の畜産の全てをかけて、一頭は平和号、そしてもう一頭は若葉号と名付け、心のよりどころを失った若者たちに畜産を呼びかけたのです。


 数年後、彼の努力は実を結び、各地に黒毛和牛を育てる青年団も結成されました。平和号と若葉号をもとに、改良増殖を重ね、試行錯誤の毎日が続きます。
 大隅だけではありません。指宿でも薩摩半島でも離島でも、県内各地のいたる所で、鹿児島の黒毛和牛を全国一の肉牛に育てようと多くの人々が汗水を流すそんな時代がやってきました。


 そして、昭和45年5月の和牛国内オリンピックとまで言われる全国和牛能力共進会で総理大臣賞、農林大臣賞を見事に獲得した鹿児島県は、その時名実共に最上級黒毛和牛の産地となったのでした。







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